かわっていくもの

2007年1月14日
この間、ゼミの模擬授業で、ある条件から一つの国をつくっていく、という実習をやった。

その実習では、まず5つのグループに分けられ、各グループにこれから作ってもらう国の条件が提示され、その条件を下に一つの国を作り上げる、といったものだったんだけど。
最終的には、各グループで作られた5つの国は一つの大陸としてまとめられ、かたちある一つの“もの”として完成形に作り上げられた。

その過程の中で個人的に一番面白かったのは。
各グループによって作られた5つの国のどれもが、一つの大陸になるに辺り、どこかしら今までの形を変えられていた、ということだ。

ある国は地理的条件が。
またある国は交通面などの条件が。
出来上がった国の状態によって差異こそあれ、どの国も多かれ少なかれ、元の形とは違った形で一つの大陸に吸収されていった。


これを人間に置き換えて考えてみると、何とも興味深い。


つまりは、人はある人と関わりを持つ時、少なからず自分本来の「かたち」とは変わっていってしまう、ということになるのだろうか。
そうじゃなくて、自分は自分のまま、何も変わらずそのままで、ある一つのものと関係を共にし、共存していくことは出来ないのだろうか。

この実習をやった時、僕は自分が作った国、あるいは他のグループが作った国が「かわっていく」ことを大前提にプロセスを考えたけど。
たとえばもし、自分が教師になったらと仮定して。

育ってきた環境も性格も全く違う生徒を何十人と任されて。
その中で一つの「クラス」という形を作り上げることを託されたら、
僕はその過程の中で、各生徒に必ず「変化」を求めてしまうことになるだろう。

生徒は何も変えることなく、一つのクラスを作り上げることは出来ないのだろうか。
そのためには、クラスの枠組みを広げるしかない。
ある組織が持つ枠組みが狭ければ狭いほど、こうした軋轢が生まれるのだろうから。
そういったプロセスを考えながら、あの実習をもう一度やってみたかった。


「個性の尊重」って、何だろうね。
どこまでが尊重していい個性で、どこからが変えるべき個性なんだろうか。


昔と今と比べて、僕は確実に変わっているだろう。
でも、決して変わっていない部分もあるのだろう。

変わることをよしとする人と、そうではない人。
それを決めるのは他人ではなく、自分であるべきだと思う。
自分でここを変えたほうが良いと思わなければ、人は決して自分からは変わろうとしないものだ。

「つながる」ことが100%正しいかどうかは、僕は分からない。
その過程の中で、その人にとって一番大切なものが変えられてしまうかもしれないから。


だけど大切なのは。
相手だけじゃなく、自分も変わろうとする姿勢。


相手に自分の都合を押し付けて相手を変えようとするなら、自分も相手の都合を受け入れて変わっていく必要があるんじゃないかな。
それが、「つながっていく」ということじゃないかな。
その上で、人の個性が殺されることなく活かされるなら、それが一番なんじゃないかな。

そんなことをふと考えました。

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