苅谷剛彦さんの『教育改革の幻想』という本を購入。
今一度、自分の中での「教育とは」という問いに対する答えをリセットしたくなったので。

・・・・・・

多少御幣がある言い方だが。
ぶっちゃけ最近の自分は、「教育」に対する熱意がやや冷めかけている。

といっても教員になることを諦めたわけではないし、教育に対して悲観的になったわけでもない。
バイトをしてても、音楽を聴いてても、俺の心の中には常に「教育って何だろう」という思いが存在する。

ただ、その疑問を考えるベクトルの方向が変わってきたというか。

真正面からぶつかって見えてくる答えもあるだろう。
だけど、寄り道したり、斜めの方向からぶつかった時に見えてくる答えもあるんじゃないかなって。
そんな風に考えるようになった、と言うべきか。

簡単に言えば、より“客観的”になりつつあるかもしれない。

ただでさえ主観に陥りやすい教育問題を恒常的に考えるには、こういった姿勢も有意義なことなんじゃないかな、と俺は思っている。
ひと時の熱意のみで集中的に考えたいなら主観のみで考えるのもアリだと思うが、たぶん自分にとって「教育」とは一生を掛けて追うものになりそうなので。
だから、時には距離を置いて見つめなおすのも重要なんじゃないかな、と(自分の場合、飽きっぽい性格もあるので)。

若いうちからやりたいことが見つかり、自分の時間のほとんどをそのことに費やして人生を過ごす人を羨ましいな、と思ったことがある。
自分はそういう生き方が出来なかった人間だし、これからも出来そうにないから。

だから、この際だから、何事にも偏らずとことんユニヴァーサルに生きてやろうかな、と。

真面目なこと。くだらないこと。
イッサイガッサイ飲み込んで、色んなことを吸収してやろうかな、と。
これは自分の中で「教育」という一つの軸が出来上がったからこそ辿り着くことが出来た思考のアプローチの仕方だと思うけど。

まぁそんなこんなで、マイペースだけどやるこたぁやってますよって。自分なりに。
そういうことです。

何かを測る物差しは、何も一つじゃなくてもいいんじゃない?

コメント

nophoto
大仏君
2006年4月1日6:25

ん〜賛成。
斉藤孝さんも過去の偉人は一つに偏らずにいろいろな分野・視線で臨んでたって言ってるしね☆
でも難しい↓↓

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