ちょっと前に、某大学で教育学を教えている助教授の方と縁があり、ネット上で教育について意見を交わしながら議論をする機会を頂けたのですが(ちなみにその人は今の大学の先生ではありません)。
昔から、自分が関心ある分野について人とくっちゃべるのはかなり好きなので、この手の議論は教育ネタに限らず(それこそ趣味の領域まで)色々としてきました。
で、そういうやりとりを通じて思ったことなどを。
・・・・・・・・・
あらゆる議論って、自分の殻に閉じこもっちゃうのが一番楽なんです。
相手の意見などしらんぷり。ひたすら自論を展開するだけ。
そうすれば、とりあえず自分の意見だけは言うことが出来るからスッキリするし、議論を終えた後にもそれなりの爽快感が残るかもしれません。
だけど、その爽快感を議論全体のものと勘違いして、「あぁ、充実した議論をしたな」とか勘違いしちゃうことがあるんです。
これは凄く危ないことだなって実感しました。
自分が主張したいことを全部言えればそりゃあスッキリもするし、自分の心はとりあえず充実するでしょう。
だけど、議論をする前とした後で何が変わっているかと言ったら、何も変わっていない。
お互いが歩み寄らずにただ言いたいことを言い合うことに時間を費やしただけで、じゃあ今後どうなっていくのか、と言ったら、何も変わってないんですよね。その議論を通じて自分の中で何か変化があるわけではないし。
ただ、「自分の意見を滞りなく言うことが出来た」という満足感が残るだけで、おそらく収穫も反省点も見つからないでしょう。
でも充実感はあるからそれで良しとしてしまい、結局自分の進歩はない、みたいな。
議論をすると言うことは時として、そういういわゆる「自分酔い」みたいになってしまって、他人の言葉が入ってこない、入れようとしない状態に陥る危険性もあるんですよね。
自論は展開しつつも、常に頭の片隅は冷静でいなければならない。
で、色んな人の意見や現在の現状をきっちりと把握し、様々な形で微調整を加えながら、よりいいものを“お互いに”(これ重要)作り上げていかなければならない。
そういう意味では、身の回りのあらゆるものが自分にとっての教材であり、自分を高める可能性になるわけです。
互いを尊重し、その上で吸収し、変化させることが出来る人が、いつまでも向上できる人なんじゃないかなって。
そんなことを考えました。
・・・・・・・・・
教育を考える時。
俺は時として「自分酔い」してしまう時があります。
“他人のことを一生懸命考えている自分”というものに自惚れる時があります。恥ずかしながら。
押し付けがましい優しさは、“思いやり”ではなく“思い上がり”。
教育に限らず恋愛、友情、愛情、憎しみ。
その他全ての“人の業に直接関わる世界”は、机上の理論がそのまま通用するほど甘くありません。
自宅で、大学で、教育を学びながら、頭の片隅を冷やしつつそんな事をつぶやく俺が、常にどこかにいます。
盲目の優しさは、時に誰かの足枷になりかねません。
反省しかない毎日も、いつかは立派な教材になるはず。
いつでも謙虚に、ひたむきに、向上心を持って進んで行きたいなぁと、俺は考えます。
昔から、自分が関心ある分野について人とくっちゃべるのはかなり好きなので、この手の議論は教育ネタに限らず(それこそ趣味の領域まで)色々としてきました。
で、そういうやりとりを通じて思ったことなどを。
・・・・・・・・・
あらゆる議論って、自分の殻に閉じこもっちゃうのが一番楽なんです。
相手の意見などしらんぷり。ひたすら自論を展開するだけ。
そうすれば、とりあえず自分の意見だけは言うことが出来るからスッキリするし、議論を終えた後にもそれなりの爽快感が残るかもしれません。
だけど、その爽快感を議論全体のものと勘違いして、「あぁ、充実した議論をしたな」とか勘違いしちゃうことがあるんです。
これは凄く危ないことだなって実感しました。
自分が主張したいことを全部言えればそりゃあスッキリもするし、自分の心はとりあえず充実するでしょう。
だけど、議論をする前とした後で何が変わっているかと言ったら、何も変わっていない。
お互いが歩み寄らずにただ言いたいことを言い合うことに時間を費やしただけで、じゃあ今後どうなっていくのか、と言ったら、何も変わってないんですよね。その議論を通じて自分の中で何か変化があるわけではないし。
ただ、「自分の意見を滞りなく言うことが出来た」という満足感が残るだけで、おそらく収穫も反省点も見つからないでしょう。
でも充実感はあるからそれで良しとしてしまい、結局自分の進歩はない、みたいな。
議論をすると言うことは時として、そういういわゆる「自分酔い」みたいになってしまって、他人の言葉が入ってこない、入れようとしない状態に陥る危険性もあるんですよね。
自論は展開しつつも、常に頭の片隅は冷静でいなければならない。
で、色んな人の意見や現在の現状をきっちりと把握し、様々な形で微調整を加えながら、よりいいものを“お互いに”(これ重要)作り上げていかなければならない。
そういう意味では、身の回りのあらゆるものが自分にとっての教材であり、自分を高める可能性になるわけです。
互いを尊重し、その上で吸収し、変化させることが出来る人が、いつまでも向上できる人なんじゃないかなって。
そんなことを考えました。
・・・・・・・・・
教育を考える時。
俺は時として「自分酔い」してしまう時があります。
“他人のことを一生懸命考えている自分”というものに自惚れる時があります。恥ずかしながら。
押し付けがましい優しさは、“思いやり”ではなく“思い上がり”。
教育に限らず恋愛、友情、愛情、憎しみ。
その他全ての“人の業に直接関わる世界”は、机上の理論がそのまま通用するほど甘くありません。
自宅で、大学で、教育を学びながら、頭の片隅を冷やしつつそんな事をつぶやく俺が、常にどこかにいます。
盲目の優しさは、時に誰かの足枷になりかねません。
反省しかない毎日も、いつかは立派な教材になるはず。
いつでも謙虚に、ひたむきに、向上心を持って進んで行きたいなぁと、俺は考えます。
コメント
人にする行為は果たしてそのままその人に帰結するのか。
それとも結局自分に帰結するのか。
人間であれば誰でも後者が大部分の要因ではあると思う。
過去の哲学者も心理学(がくさんが嫌いな)による精神分析も結局は後者が動機になることが多い。もしくはそれが全てであると言っている。…らしい。
でもね〜。俺は人間単純でいいと思うんだ。
そんな深層心理は自分でもわからんでしょ。
俺が思うに、
「恩は着せるものでなく、着るもの」
という考えがるから、
それさえわかっていればいいと思うんだ。
深層ではわからん。
でも意識でそう思えていれば、少しはマシにはなるはず。
それが大事なんだと思う。
大学に入って、正解なんてないのだと気付いた。
でも理想はある。
それに近づき、いつまでも主張し続けることが俺らの戦いだと思うんよ。
これも己惚れかも知れないけど、いつまでもそう思い続けたい。
なぁ〜んてね(゜ε゜;)
ごめん。。酔っぱらってるわ。。。。
大仏君のコメントを読んで思ったこと。
教育で言ってもさ、同じカリキュラムを受けた生徒でもその中から何を学ぶかは結局の所生徒によって変わってくるわけじゃん?
だから、そういう意味では、自分の行為がそのまま他人に帰結することはないんじゃないかなって。
自分の行為(好意)の帰結する所が結局他人任せならば、自分がやるべきことは・・・って考えた時にどうするか、って話なんだよね。要は。
そういう意味では、大仏君の言うとおり“単純”でいいのかもね。
やっぱさ、考えすぎるのって疲れるし、考え方が硬くなるだけだし。